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認知症に優しいまちづくり実行委員会という任意団体の代表をしているのですが、その取り組みの中でアドバンス・ケア・プランニング(ACP:愛称「人生会議」)と「もしバナカード」の普及啓発活動を行っている。
「認知症に優しいまちづくりになぜもしバナなのか?」
(もしバナ=もしもの為の話し合い)
私は認知症初期と診断を受けた方に積極的にもしバナカードを使ってゲームを行いながらACPを行うようにしている。
認知症の診断を受けた方は「認知症」の診断を受けて気落ちされる方が多く気丈にふるまっていても、その精神的ショックは様々な当事者の書籍の体験談からも推測できる。
そんな状態の中で、
「余命半年になったもしもの時、あなたはどうしますか?」
なんて聞こうものなら信頼関係もへったくれもあったものではない。
いや、確実に嫌われる。(そんな空気読めないやつに相談なんてできないですよね。)
ただ、認知症だからと言って他の病気にならないとも限らないし、認知症の進行度は個体差がある為、元気なうちからの意思確認はしておかないと、最終的には本人も家族も苦しんでしまう。
そんな時に「ゲーム」なら気軽にと導入が非常に行いやすい。
最初にカードを見せると、その容姿からトランプなどのゲームを連想させ、「これならいいか」と気軽に取り組んでもらえる。
認知症初期の方々のその後は様々で、徐々に進行していく人や癌などの別の病気が発覚し、見る見るうちに体力も気力も衰えていく方など、支援のありようは様々。
その中でも、「元気なうちから」もしバナゲームをしていた事が、家族の心の支えになったり支援側の踏み込んだ発言をしやすい関係性を構築しやすい状況に繋がる等の様々なACPの効果を体験する事に繋がっている。
「そういえばこんな事言っていたな。」
「前の私はこうだけど、今は違うかな。」
そうやって気持ちの揺らぎを体験していると、いざというときにその体験が心の支えになる。
「どうしよう。」と不安になるだけではなく「これでいいんだ。」と、不安や混乱を受容する事に繋がるようだ。
少しでもより良い最期を迎えられる様に、使えるツールを有効に活用していく能力が求められている。
また興味のある方は、「もしバナ体験会」の依頼を頂ければと思います。
ではでは。
ACP(アドバンス・ケア。プランニング)の一般市民向けを行う意味
ACP(アドバンス・ケア・プランニング)の概念理解の普及啓発がなぜ必要かと言うと、右下の支援困難パターンに陥ると、本人が望む人生を送る事が出来ない可能性が高く、支援側も手が出しにくい状況に陥りやすくなる。
また、右側中段の多職種連携においても、ACPの概念説明やそれぞれの職種においてのACPの関りがより求められる為、結局は連携部分による負担が高くなる恐れがある。
右上の上位20%を60%まで拡大する事が出来れば、当事者も支援者もより良い終末期を過ごし、それを支援する事が可能いなりやすくなる。
今は左上部の専門職の一部しかACPを理解していない状況であり、一般への普及はまだまだこれから。
もしバナゲームは左下のレクリエーションゾーンに対し普及啓発を行いやすく、興味の無い人を「学びソーン」まで引き上げる事が可能なツール。
ただ、扱い方を間違えると、逆効果になる事もあり、適切な扱い方を指南するファシリテーターが必要だと、経験上思う。
もしバナゲームを一般に向けて行っているのは、それが巡って「レクリエーションゾーン」から「支援困難ゾーン」へ行く人を軽減していく事で、医療介護業界の負担軽減のみならず、人が最期まで望んだように生きれるという当たり前を実現する事に繋がると思っているから。
図の数値はあくまで勝手な体感値なので参考にならないが、数百人へのもしバナゲーム実施の経験上、あながち間違っていない様にも思っている。
伝え方もそれぞれのゾーンによって変わってくる。
「レクリエーションゾーン」はまず当たり障りが良い様に楽しく簡潔にがポイント。
その為に、「三枚のお札」の昔話から引用してもしバナゲームを老若男女が興味を持てるよう構築するなど少し研修内容を変化させる必要がある。
「学びゾーン」や「専門職ゾーン」には楽しさは求められず、より具体的で経験値を元に伝えていく必要がある。
また、疾病や体調から将来予測を立てる等の相談支援も必要になる為、より専門職の関りが重要となってくる可能性が高い。
多職種連携ゾーンにも「もしバナゲーム」は有効だ。ライトに楽しく行う流れで多職種の必要性や個人の嗜好を入り口になる為だ。
よりクリエイティブな支援を行う為には、その素地としての学ぶポイントを集約しながら考える必要がある。
ではでは。
アドバンス・ケア・プランニング(ACP)が注目されるワケ
中身を見てみると、在宅支援を行っている医療介護職からすれば「今更こんなこと?」と言われる内容であったりする。
病院等医療は
ただ、在宅側の欠点としてはEOLCにおけるEOLディスカッションをACPと勘違いしている人も多々見られ、その辺の理解浸透が必要であったりする。(早期の対話の機会、そこから意思決定が揺らぐこともあるという前提の理解など)
高度急性期~急性期で病院に運ばれた時に意思決定が出来ない70%に入る人だったらどうするか?
医療側は勿論「病院に運ばれてきた以上治療する」事が優先となる。
ただ、後で「そこまでしてほしくなかった」となってしまうと、本人や家族、医療従事者だって救われないばかりか、そこに費用も掛かっているので誰にとっても良い結果を生むことはない。
高齢になったから、障害を持ったから、病気になったからACPを始めるのではなく、日々の中で、時折「もしも」を考えて身近な人との対話をつくる事が、結局は自分自身の人生の質を左右することになる。
普段の会話から、時折にでもそんな話をして意思決定がしやすい状況を作っておく。(もちろん答えはなし)
「在宅支援でいつもやっているから今更学ぶ必要はない」
と、突っぱねる人がいたら声を大にして言いたい。
「いや、あんたみたいなのがいるから『やろう』ってなってるんじゃん?」
そんな無理解な方が多いので、今まさにACPが注目されているのだと思う。
いきなり対話なんてできるわけがなく、一定の受け入れと慣れは必要であったりする。
そんな「対話の機会」をつくる方法としてカードゲームとして考える機会を開催するので、そこでまた新たな発見を模擬体験を通じて考えて行きたい。
ではでは。
遠くの有名人より、身近なあの人の背中をみる事が大切
名古屋に初めて来たときもそんなこと言ってたな。
なので、当時のツレに会うと未だに「日本一になれた?」とか言って笑われる。
そんな人がいなけりゃ自分がなればいいし、そうやって一人一人が輝けば、業界も変わるんだと思っている。
介護福祉業界にカリスマはいらない。
みんなそれぞれの介護受ける人達やまちの人達一人一人のカリスマでいいじゃない。
東海圏なんて素敵な人一杯で紹介したい人ばかり。
地産地消ではないけれど、その人たちにスポットライトが当たってほしいと願うばかり。
どこなのかはさっぱり分からないけれど、最高を目指す人達との繋がりは何にも代えがたい。
目指す人は身近にいる。
他の地方から有名人連れて来て「どや!」じゃなく、身近なあの素敵な人たちをもっと知ってもらいたい。
奥歯にものが挟まった書き方で失礼。
ではでは。
数字にごまかされない為に
仕事で数字をみる事は大切な事なんだけれど、数字を追うってのは余りよろしくない。
数字は「圧縮言語」なので、その数字の意味を理解しないままにその数字を追ってしまうと、求めていたものと違う結果になったりもする。
私はよく「認知症カフェやらないの?」なんて言われたりする。
カフェ文化の発展もあり、名古屋市の認知症カフェは全国有数の数。
名古屋市としては各学区に1つぐらいの形で認知症カフェがあってほしいと設置の推進を行っているようだ。
認知症カフェや、名古屋市が行う「高齢者いきいき相談」は、介護保険に繋がる前の空白の期間に社会資源と繋いだり集いの場とする目的がある。
「空白の期間」に閉じこもったり、どうすれば分からずに症状が進行される方も多く、早期発見、早期対応に繋げる入り口のようなものなのだが、そこにそういった当事者が来たいと思うかどうかはまた別の話。
病気や疾病、もしくはその予兆を医師が発見もしくはその疑いの予見をした場合に、その当事者に「認知症カフェ」や「高齢者いきいき相談」へ繋げる案内を行う、もしくはその病院や近隣のそういった場に繋げると空白の期間を見逃さずに済むこともある。
もともと認知症カフェはそうやって医療機関の協力もとはじまって行ったのだが、名古屋市のカフェでは医療機関との関係があるところが少ない場合、勿論、来られる方も相対的に少なくなる。
空白の期間を過ごす方は基本的に外の情報に触れる事が少ない。なので、近くでそういった場があってもそういった人達に情報が届かないからだ。
集まるのはボランティアや、既に繋がりを持った方々がメインとなり、空白の期間を過ごす方にはいつまでたっても情報が届かず、介護保険が必要な状況もしくは救急搬送される状態になって初めて気づき対応が遅くなる。
結果、当事者は困るだろうし、社会にとっても社会保障費の増大に繋がる。
その空白の期間を埋める場所としての「高齢者いきいき相談」や「認知症カフェ」は有効だけれど、その初期の発見がしやすい「医師」や医療関係者の働きかけが何より大事。
そもそも認知症カフェだってそうやって始まって行ったわけだしね。
「認知症カフェやらないんですか?」とか「高齢者いきいき相談の件数増やさないと」と言われても、「やりたいからやる」だけでは意味が全くないからやらないのです。
それだけです。
例えば、私が認知症カフェをやるなら、地元の医師会を始め、近隣の病院をかけまわって、
「こんな方おられたら、是非紹介してくれませんか?こんな形で支援に繋がるかもしれません。紹介を受けた方は主治医の先生はやっぱりよく地域の事を知っていると感謝されることもあるかもしれません。是非お願いします。」
とか言って、まずは初期の発見を行いやすい医療機関に協力を打診し、協力OKを貰ってからスタートする(いや、したい)。
街中で「高齢者いきいき相談室」を年間通して行ったこともあるが、基本は来ない。
自分の恥部を人前にさらしたくないという心理も働くし、そんな所に当事者が来ない場合の方が多い。
医療機関に設置するのもいいが、医療機関がそういった活動を知っていて、積極的に繋げる事の方が重要だったりする。だって、医療機関だって忙しいからね。
そんな根本的な所を抑えながら運営するにも時間も手間もかかるがやるならこれかな。(もちろん、自分が行きたいという雰囲気作りなどは確実に必要)
「高齢者いきいき相談」の件数の高い低い、認知症カフェ設置数の多い少ないは、実はそんなに必要のない数値だと思っている。
それよりも中身がどうなっているのか。
- 地域の空白の期間の方々が足を向ける仕掛けを医療機関等と連携して構築しているか。
- 自分が来たいと思える、地域の人が来たいと思える場所か。
- 来られた方それぞれに個別に対応する能力がその場にあるか
等、カフェや相談事業に求められる根本部分を理解したうえで、その数字を見ていると、また見方が変わる。
アンケートを集計する際も「このアンケートはシステムや根本部分の大切な所を理解しているかどうか。」で質問事項は変わるので、質問内容を見ていても面白い。
数字の大小だけでは決してごまかされないようにしたいなと思います。
ちなみに、訪問介護をやっていた時は、ヘルパー20人位で事業所の売り上げが月に1200万を超えていた。
やはり質が良いと数字に直結する。その逆もまたしかり。
追い求めるは数字のその先で、それを理解するのが大事。
数字のマジックにとらわれない様にね。
ではでは。
日本の介護に勝手に絶望している人たちへ①
人材の質が2000年の規制緩和にあるって話をきいて、思った事。
「国のせいにしているのナンセンス。」
人口減少なんて昔から分かっていた課題で、人材不足になる事なんて目に見えていた。
今の状況は、措置時代からの怠慢経営をし、集金(経済なんて言わない)ベースでビジネスを始めたハイエナさん達の賜物でしょう。
介護保険が始まる前の「措置時代の介護」
私が専門学生時代に「措置時代の施設」へ行ったとき、マグロを洗うような格好で、台の上に裸の高齢者を荒々しく乗っけて4人がかりで無理やり体を洗って、「ハイ!次」とかやってた入浴介助は忘れられないですね。
実習初日に「よし、介護の仕事辞めよう」と逃げ出そうとしたっけか(笑)
そんな介護と言えない介護から脱却し、様々な成果を上げてきたヘルプマン達の活躍の事実があるんです。
「措置時代からの怠慢経営をし、集金(経済なんて言わない)ベースでビジネスを始めたハイエナさん達」は何も知らない一般人を集めてヘルパー資格をとらせ、「介護は気持ちだ」とか言って、理論無視のむちゃくちゃな介護と措置時代に許されていた事を盾に人権無視の介護を続けて利益をむさぼった結果、介護人材が次々に潰れていった経緯があります。
「科学的管理法」を打ち立てたフレデリック・テイラーをご存知ですか?
19世紀のヨーロッパの工場で、業務の可視化により生産性向上を可能にした後、生産性向上による利益を従業員と分け合う事で組織が発展して行くといった経営戦略を打ち出した方です。
「科学的管理法」により、様々な産業の効率化と労働環境の可視化・整備が進み賞賛されたものの、なんと「科学的管理法」を使って経営者はひたすら生産性を上げるだけ上げてその成果を労働者とは分け合わなかったのです。
これにより、労働者側は反発(人権を無視した労働強化だ!と考えた)し、経営陣と労働者の対立が激化してしまう事で結局は労働者が組織から離れて行ったそうです。
介護の現状はこれにそっくり。
いくら良い経営戦略や体制・手技手法を活用し、より良い介護をしたとしても、その成果を従業員と分け合わず、ひたすらケアの質の向上だけを求め続けている現状では人は集まりません。
「介護保険は収入が決まっているからしょうがないんだ!」と言う人。ならなぜ、報酬をしっかり払えている組織とそうでない組織があるのでしょうか?
人材なんて募集しなくても自然と集まり離職しない職場とそうでない職場が分かれているのでしょうか?
トップダウンが大事というわけではありませんが、2000年の介護保険による緩和措置が問題であったのではなく、問題はそもそもの経営者たちだったのです。
一言で言うと失敗している人たち(絶望している人達)は、先見の明が無かったという事でしょう。
今からでも反省して取り組むべきです。
- 組織の可視化・透明化。
- 質の向上に見合った成果共有。
- 本当に必要な人材の確保と育成。
と、言っても無駄な人には届かないのが世の常。
優良な経営者は沢山いますが、措置時代の流れや粗悪な考え方を持つ経営者も
人のせいにしてケツふかせようとする前に自分のケツぐらい自分で拭いてもらいたいもんです。
ではでは。
アートとロジックを繋げるにはデザイン力とマネジメント力が必要
「最近の子は何を考えているかわからない」
なーんて言葉よく聞きませんか?
恥ずかしいのか、気取っているのか、カッコつけているのか…?
自分を装い「本当の自分」や「ありのままの感情」を表出する事が苦手な子が若い子に多いのは事実だと思います。
何故か?
それは、昨日の記事にも書いた藤原准教授のお話「英語やサイエンス等のロジック(論理)中心型教育(ポストデモクラシー:経済エリートにおける政策立案等)の弊害」が非常に影響していると思っております。
「自分がどうか?」
よりも
「他人にどう見られるか」
を気にする事を優先的に考え、
「自分が楽しい」
よりも
「相手が楽しい」
を優先し、自分を優先順位の下位に置いてしまい、その結果「自己肯定感」が低くなってしまうようです。
「他人にどう見られるか」を考えると、「こう見られたらこう、こうしたらこう」と課題抽出思考となり、それらを解決していく為に「こうしよう、ああしよう」となるわけです。
まさにロジック(論理)を積み重ねていく過程ですね。
これを繰り返していくと無難な恰好で金太郎あめのような同じ服・表情になっていきます。(多少の嗜好はあるけれど)
それを繰り返していくとみんな同じ格好になってしまって…きっとそうやって制服やユニフォームが生まれるんですね。
人間の意識できる範囲なんて生活の約20%。(合理性・論理の世界)
その約20%の表現として規律や安全などを重用する場面では制服やユニフォームは重要かとおもいますが、
残りの約80%のあなた「非合理性・非論理性」はどこへ行くのか?
学校ではロジカルシンキング(論理的思考)を求められ、地域や家庭では親や兄弟、近所の目を気にして、考えて考えて…
考える事に疲れて、無表情・無感情(鈍感)になるか、自分の感情(人を構成する約80%の非合理性・非論理性)を抑制してしまう。
「最近の若い子」はまさにそんな時代を生きているのかもしれませんね。
彼らの「楽しい」「面白い」「ワクワクする」を表現する場所はどこにあるんでしょうか?
一方、街づくりと言われる一連の流れを見てみましょう。
街づくりにおける地域課題の抽出過程を見てみると、
- 地域の様々な困り事を集める。
- その中から特に地域に影響の強そうな課題を抽出。
という過程の中に「ワクワク感」なんてありません。
「問題をどう解決するか?」なんてのは「面倒な事、厄介なことをどう処理するか」と言った思考にしかなりにくいんです。
皆面倒くさい事には関わりたくないんですよね。
あれ?
ここでも「楽しい」とか「面白い」「ワクワクする」なんてない。
それに、最初に話をした「若者の自己肯定感の低い原因」の話と構造が同じじゃないですか?
…実は、ここで必要となるのが「デザイン」や「マネジメント」なんです。
「デザイン」と「アート」を混同される方がおられますが、基本は別物です。
先日の美術教育学会でも話に上がっていたのは、
「デザイン」は様々なものを洗練させていく工程であり、ロジックの中で混沌としたものをわかりやすく提示したり、強調したり、シンプルにしたりする事で
「アート」はまず自分(個人)がそれに満足し、他者からどう見られるかは関係ないので、
ロジックとアートを融合させ整理し、伝えていく過程が「デザイン」であるとの事でした。(ここ、結構あいまいな記憶)
各種先生方の話を聴いてい居る限りでは、カタチとして起こしていく為には、更にそういった一連の流れを「マネジメント」していく必要があるんです。
学校には校則を始めとしたルールがあり、地域社会とは違う文化があり、地域の人達からは卒業生でもない限り中の様子をうかがい知る事はありません。
小中学校は地域の学生が通うので中の様子もわかりますが、高校となるとそうはいかないですよね。
高校の校内は地域から隔離されている場所と言っても過言ではありません。
そんな学校社会と地域社会を繋ぐためには、学生の「楽しい」「面白い」「ワクワクする」を、地域課題とうまくマッチングさせる発想とデザイン力、そしてそれら全体をうまくマネジメントする力が必要になります。
これからの「学校の先生」にはそういった事が求められると言われておりましたが、
「ただでさえ教育者が減少する中で、それだけの能力を持った人が教師をやるのは大変だな」と思う反面、
「そういった理解ある先生が増えてくれれば、地域も変わるのではないか」と言った期待を持持つ事も出来ました。
私の卒業校は「持ち味を生かす」事を大切にし、今考えると地域との様々な交流を通じて社会性を育んだり、表現する事の大切さを体験することが他の高校よりは出来ていたのかなと改めて思います。
これもまさに「非言語」かつ「無意識」の教育ですね。
(私の卒業校)
こういった地域との繋がりやを作れる学校に学生は集まり、自己表現・アートを通じた体感型の授業を通じて社会で活躍する人材を育てていくんですね。
このような学校はまだまだ少ないのでしょう。
介護の教育課程にもこういった取り組みをどんどん広げていってもらいたいですね。
「ボランティア」で強制的にお手伝いさせられるのではなく、「自分たちの持ち味を生かした社会貢献の場を作る授業」。
そういった学習を体験した生徒たちは、介護の現場に来ても利用者様と地域との繋がりを考えてくれるのです。
だって、自分たちが体験した事だから。
人は体験した事しか十分に理解はしないし、体験によってしか変わりません。
ロジック(説得)ではなく、アート(納得)が必要なんです。(アートだけってのも問題。何事もやりすぎはダメ)
若い子にも、接する被支援対象者にも、パートナーにも、それぞれの想いを表出できる体験を持っていただきながら自分も楽しみたいですね。
街づくりや福祉の現場ではその体験が非常に得やすい。
そんな体験をして頂ききながら、デザイン力とマネジメント力が鍛えられる「場」があるって考えただけで楽しい!☚非論理。
そういった場が増えれば、社会も活性化するんじゃないかと思うんです。
ま、結局何が言いたいのかと言うと、対極的なものを繋げるときには、それぞれの成り立ちや考え方を理解し、デザインし、マネジメントする力が必要ってことで、その流れが社会課題の解決に有効かもしれないよと言うお話です。
ではでは。