アドバンス・ケア・プランニング(ACP)が注目されるワケ

厚生労働省国立長寿医療研究センターが推進しているアドバンス・ケア・プランニング(ACP)がにわかに注目を浴びている。

中身を見てみると、在宅支援を行っている医療介護職からすれば「今更こんなこと?」と言われる内容であったりする。

病院等医療は
①「医学的判断」
②「本人の意思」
③「家族の意向」
で、本当は①と②が普通は逆なんですけど、医療機関は「治療と生命保護」を優先させる機関なので、「治療したくないなら出て行って」スタイルである事を考えると、↑の順番になりやすい。
 
医学的判断の優先順位がトップに来ると、その判断をする人(医師)が一番権限がある訳で、病院のヒエラルヒーの成り立ちの所以でもあったりするんですね。
 
在宅では本人及び家族のテリトリーであり、意思決定については勿論、
①「本人の意思」
②「家族の意向」
③「医学的判断」
なので、在宅経験や生活の場での支援経験がある方は、「対話の場」を求められる事が多く、EOLディスカッションの機会も多い。

ただ、在宅側の欠点としてはEOLCにおけるEOLディスカッションをACPと勘違いしている人も多々見られ、その辺の理解浸透が必要であったりする。(早期の対話の機会、そこから意思決定が揺らぐこともあるという前提の理解など)
 
ACPを通じて、「約70%の方が終末期に意思決定できない状態になる」事を理解し、こういった対話の機会を増やしていけば、医療のヒエラルヒーに巻き込まれず①「本人の意思」②「家族の意向」③「医学的判断」を基本ベースとした対話が行え、本人や家族の満足度、充実感等は勿論、無駄な医療費等の削減にも繋がりWin-Winだよねって話なんだと思っている。(もちろん他にも様々あるのは承知の上で)

高度急性期~急性期で病院に運ばれた時に意思決定が出来ない70%に入る人だったらどうするか?

医療側は勿論「病院に運ばれてきた以上治療する」事が優先となる。

ただ、後で「そこまでしてほしくなかった」となってしまうと、本人や家族、医療従事者だって救われないばかりか、そこに費用も掛かっているので誰にとっても良い結果を生むことはない。

高齢になったから、障害を持ったから、病気になったからACPを始めるのではなく、日々の中で、時折「もしも」を考えて身近な人との対話をつくる事が、結局は自分自身の人生の質を左右することになる。

普段の会話から、時折にでもそんな話をして意思決定がしやすい状況を作っておく。(もちろん答えはなし)

「急性期医療に必要ない」
「在宅支援でいつもやっているから今更学ぶ必要はない」
と、突っぱねる人がいたら声を大にして言いたい。

「いや、あんたみたいなのがいるから『やろう』ってなってるんじゃん?」

そんな無理解な方が多いので、今まさにACPが注目されているのだと思う。

いきなり対話なんてできるわけがなく、一定の受け入れと慣れは必要であったりする。

そんな「対話の機会」をつくる方法としてカードゲームとして考える機会を開催するので、そこでまた新たな発見を模擬体験を通じて考えて行きたい。

ではでは。

遠くの有名人より、身近なあの人の背中をみる事が大切

 
介護福祉士の専門学校の初日の自己紹介の時、「世界一の介護福祉士になる!」と啖呵を切ったのを今でも覚えている。
 
高校の部活の横断幕が「目指せ!日本一の桃太郎」だったので、「あそこで鍛えられたんなら、どうせなら世界一とでも言っておけ。」といった程度の覚悟だったと思う。

名古屋に初めて来たときもそんなこと言ってたな。

なので、当時のツレに会うと未だに「日本一になれた?」とか言って笑われる。
 
ホントにアホですね。
 
当然、自分自身に世界一なんて全然ピンと来ないままの発言。
 
介護の仕事なんて特に、日本一ってのも競争事なんかじゃないので比べようがない。
 
どんなにダメって言われても、その介護を受ける人が「あんたが世界イチ」って心の底から表現してくれたらそれでよし。(とりあえずはね)
 
とりあえず、地域やまちでイチバン、施設や事業所でイチバンならまだ想像できる。
 
とても目指しやすいので、初めのうちは憧れの先輩を見つけては押しかけて行ったりしていた。
 
ただ、その地域ではまだ未発達な事や未熟な所もあるので、そういった時は他の地域からいわゆる「センセイ」を招いて講義を受けた。
 
地域にその考え方や知識技術が発達していないと判断したから。
 
「まち」には様々なジャンルの人がいて、都市部なんかは本当に魅力的な人が多い。
 
その「まち」に足りない部分は他の地域から持ってくるってのもありだけれど、その地域にある素晴らしいものがあるなら、それをどんどん広めて行ってもらいたいと思っている。
 
特にその「まち」にいる人達は、身近で目標になりやすく、そこから繋がりや発展等の好循環が生まれやすい。
 
他の「まち」から魅力的な人を呼ぶときはその地域に無い魅力を持つ人で、まちに足りないものなら納得できるが、そうでない場合は、あんまり足を運ぶ気になれない。
 
「地元でもっと活躍している人がいるじゃん。」
 
そういった人達にもっともっと輝いてもらって、その周りにいい影響が循環していってほしいと思う。
 
遠くの有名な誰かより、身近な所の凄い人。

そんな人がいなけりゃ自分がなればいいし、そうやって一人一人が輝けば、業界も変わるんだと思っている。

介護福祉業界にカリスマはいらない。

みんなそれぞれの介護受ける人達やまちの人達一人一人のカリスマでいいじゃない。

東海圏なんて素敵な人一杯で紹介したい人ばかり。

地産地消ではないけれど、その人たちにスポットライトが当たってほしいと願うばかり。


どこなのかはさっぱり分からないけれど、最高を目指す人達との繋がりは何にも代えがたい。

目指す人は身近にいる。

他の地方から有名人連れて来て「どや!」じゃなく、身近なあの素敵な人たちをもっと知ってもらいたい。

奥歯にものが挟まった書き方で失礼。

ではでは。

数字にごまかされない為に

仕事で数字をみる事は大切な事なんだけれど、数字を追うってのは余りよろしくない。

数字は「圧縮言語」なので、その数字の意味を理解しないままにその数字を追ってしまうと、求めていたものと違う結果になったりもする。

私はよく「認知症カフェやらないの?」なんて言われたりする。

カフェ文化の発展もあり、名古屋市認知症カフェは全国有数の数。

名古屋市としては各学区に1つぐらいの形で認知症カフェがあってほしいと設置の推進を行っているようだ。

認知症カフェや、名古屋市が行う「高齢者いきいき相談」は、介護保険に繋がる前の空白の期間に社会資源と繋いだり集いの場とする目的がある。

 

「空白の期間」に閉じこもったり、どうすれば分からずに症状が進行される方も多く、早期発見、早期対応に繋げる入り口のようなものなのだが、そこにそういった当事者が来たいと思うかどうかはまた別の話。

病気や疾病、もしくはその予兆を医師が発見もしくはその疑いの予見をした場合に、その当事者に「認知症カフェ」や「高齢者いきいき相談」へ繋げる案内を行う、もしくはその病院や近隣のそういった場に繋げると空白の期間を見逃さずに済むこともある。

 

もともと認知症カフェはそうやって医療機関の協力もとはじまって行ったのだが、名古屋市のカフェでは医療機関との関係があるところが少ない場合、勿論、来られる方も相対的に少なくなる。

空白の期間を過ごす方は基本的に外の情報に触れる事が少ない。なので、近くでそういった場があってもそういった人達に情報が届かないからだ。

集まるのはボランティアや、既に繋がりを持った方々がメインとなり、空白の期間を過ごす方にはいつまでたっても情報が届かず、介護保険が必要な状況もしくは救急搬送される状態になって初めて気づき対応が遅くなる。

結果、当事者は困るだろうし、社会にとっても社会保障費の増大に繋がる。

その空白の期間を埋める場所としての「高齢者いきいき相談」や「認知症カフェ」は有効だけれど、その初期の発見がしやすい「医師」や医療関係者の働きかけが何より大事。

そもそも認知症カフェだってそうやって始まって行ったわけだしね。

認知症カフェやらないんですか?」とか「高齢者いきいき相談の件数増やさないと」と言われても、「やりたいからやる」だけでは意味が全くないからやらないのです。

それだけです。

例えば、私が認知症カフェをやるなら、地元の医師会を始め、近隣の病院をかけまわって、

「こんな方おられたら、是非紹介してくれませんか?こんな形で支援に繋がるかもしれません。紹介を受けた方は主治医の先生はやっぱりよく地域の事を知っていると感謝されることもあるかもしれません。是非お願いします。」

とか言って、まずは初期の発見を行いやすい医療機関に協力を打診し、協力OKを貰ってからスタートする(いや、したい)。

街中で「高齢者いきいき相談室」を年間通して行ったこともあるが、基本は来ない。

自分の恥部を人前にさらしたくないという心理も働くし、そんな所に当事者が来ない場合の方が多い。

医療機関に設置するのもいいが、医療機関がそういった活動を知っていて、積極的に繋げる事の方が重要だったりする。だって、医療機関だって忙しいからね。

そんな根本的な所を抑えながら運営するにも時間も手間もかかるがやるならこれかな。(もちろん、自分が行きたいという雰囲気作りなどは確実に必要)

「高齢者いきいき相談」の件数の高い低い、認知症カフェ設置数の多い少ないは、実はそんなに必要のない数値だと思っている。

それよりも中身がどうなっているのか。

  1. 地域の空白の期間の方々が足を向ける仕掛けを医療機関等と連携して構築しているか。
  2. 自分が来たいと思える、地域の人が来たいと思える場所か。
  3. 来られた方それぞれに個別に対応する能力がその場にあるか

等、カフェや相談事業に求められる根本部分を理解したうえで、その数字を見ていると、また見方が変わる。

アンケートを集計する際も「このアンケートはシステムや根本部分の大切な所を理解しているかどうか。」で質問事項は変わるので、質問内容を見ていても面白い。

数字の大小だけでは決してごまかされないようにしたいなと思います。

ちなみに、訪問介護をやっていた時は、ヘルパー20人位で事業所の売り上げが月に1200万を超えていた。

やはり質が良いと数字に直結する。その逆もまたしかり。

追い求めるは数字のその先で、それを理解するのが大事。

数字のマジックにとらわれない様にね。

ではでは。

日本の介護に勝手に絶望している人たちへ①

人材の質が2000年の規制緩和にあるって話をきいて、思った事。

gendai.ismedia.jp

「国のせいにしているのナンセンス。」

 

人口減少なんて昔から分かっていた課題で、人材不足になる事なんて目に見えていた。

 

今の状況は、措置時代からの怠慢経営をし、集金(経済なんて言わない)ベースでビジネスを始めたハイエナさん達の賜物でしょう。

 

ヘルプマン!」の第1巻(講談社の方)を呼んで見て下さい。

 

介護保険が始まる前の「措置時代の介護」

 

私が専門学生時代に「措置時代の施設」へ行ったとき、マグロを洗うような格好で、台の上に裸の高齢者を荒々しく乗っけて4人がかりで無理やり体を洗って、「ハイ!次」とかやってた入浴介助は忘れられないですね。

 

実習初日に「よし、介護の仕事辞めよう」と逃げ出そうとしたっけか(笑)

 

そんな介護と言えない介護から脱却し、様々な成果を上げてきたヘルプマン達の活躍の事実があるんです。

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「措置時代からの怠慢経営をし、集金(経済なんて言わない)ベースでビジネスを始めたハイエナさん達」は何も知らない一般人を集めてヘルパー資格をとらせ、「介護は気持ちだ」とか言って、理論無視のむちゃくちゃな介護と措置時代に許されていた事を盾に人権無視の介護を続けて利益をむさぼった結果、介護人材が次々に潰れていった経緯があります。 

 

「科学的管理法」を打ち立てたフレデリック・テイラーをご存知ですか?

 

19世紀のヨーロッパの工場で、業務の可視化により生産性向上を可能にした後、生産性向上による利益を従業員と分け合う事で組織が発展して行くといった経営戦略を打ち出した方です。

 

「科学的管理法」により、様々な産業の効率化と労働環境の可視化・整備が進み賞賛されたものの、なんと「科学的管理法」を使って経営者はひたすら生産性を上げるだけ上げてその成果を労働者とは分け合わなかったのです。

 

これにより、労働者側は反発(人権を無視した労働強化だ!と考えた)し、経営陣と労働者の対立が激化してしまう事で結局は労働者が組織から離れて行ったそうです。

 

介護の現状はこれにそっくり。

 

いくら良い経営戦略や体制・手技手法を活用し、より良い介護をしたとしても、その成果を従業員と分け合わず、ひたすらケアの質の向上だけを求め続けている現状では人は集まりません。

 

介護保険は収入が決まっているからしょうがないんだ!」と言う人。ならなぜ、報酬をしっかり払えている組織とそうでない組織があるのでしょうか?

 

人材なんて募集しなくても自然と集まり離職しない職場とそうでない職場が分かれているのでしょうか?

 

トップダウンが大事というわけではありませんが、2000年の介護保険による緩和措置が問題であったのではなく、問題はそもそもの経営者たちだったのです。

 

一言で言うと失敗している人たち(絶望している人達)は、先見の明が無かったという事でしょう。

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今からでも反省して取り組むべきです。

 

  • 組織の可視化・透明化。
  • 質の向上に見合った成果共有。
  • 本当に必要な人材の確保と育成。

 

と、言っても無駄な人には届かないのが世の常。

 

優良な経営者は沢山いますが、措置時代の流れや粗悪な考え方を持つ経営者も

 

人のせいにしてケツふかせようとする前に自分のケツぐらい自分で拭いてもらいたいもんです。

 

ではでは。

 

アートとロジックを繋げるにはデザイン力とマネジメント力が必要

「最近の子は何を考えているかわからない」

 

なーんて言葉よく聞きませんか?

 

恥ずかしいのか、気取っているのか、カッコつけているのか…?

 

自分を装い「本当の自分」や「ありのままの感情」を表出する事が苦手な子が若い子に多いのは事実だと思います。

 

何故か?

 

それは、昨日の記事にも書いた藤原准教授のお話「英語やサイエンス等のロジック(論理)中心型教育(ポストデモクラシー:経済エリートにおける政策立案等)の弊害」が非常に影響していると思っております。

 

「自分がどうか?」

 

よりも

 

「他人にどう見られるか」

 

を気にする事を優先的に考え、

 

「自分が楽しい」

 

よりも

 

「相手が楽しい」

 

を優先し、自分を優先順位の下位に置いてしまい、その結果「自己肯定感」が低くなってしまうようです。

 

「他人にどう見られるか」を考えると、「こう見られたらこう、こうしたらこう」と課題抽出思考となり、それらを解決していく為に「こうしよう、ああしよう」となるわけです。

 

まさにロジック(論理)を積み重ねていく過程ですね。

 

これを繰り返していくと無難な恰好で金太郎あめのような同じ服・表情になっていきます。(多少の嗜好はあるけれど)

 

それを繰り返していくとみんな同じ格好になってしまって…きっとそうやって制服やユニフォームが生まれるんですね。

 

人間の意識できる範囲なんて生活の約20%。(合理性・論理の世界)

 

その約20%の表現として規律や安全などを重用する場面では制服やユニフォームは重要かとおもいますが、

 

残りの約80%のあなた「非合理性・非論理性」はどこへ行くのか?

 

学校ではロジカルシンキング(論理的思考)を求められ、地域や家庭では親や兄弟、近所の目を気にして、考えて考えて…

 

考える事に疲れて、無表情・無感情(鈍感)になるか、自分の感情(人を構成する約80%の非合理性・非論理性)を抑制してしまう。

 

「最近の若い子」はまさにそんな時代を生きているのかもしれませんね。

 

彼らの「楽しい」「面白い」「ワクワクする」を表現する場所はどこにあるんでしょうか?

 

一方、街づくりと言われる一連の流れを見てみましょう。

 

街づくりにおける地域課題の抽出過程を見てみると、

  1. 地域の様々な困り事を集める。
  2. その中から特に地域に影響の強そうな課題を抽出。

という過程の中に「ワクワク感」なんてありません。

 

「問題をどう解決するか?」なんてのは「面倒な事、厄介なことをどう処理するか」と言った思考にしかなりにくいんです。

 

面倒くさい事には関わりたくないんですよね。

 

あれ?

 

ここでも「楽しい」とか「面白い」「ワクワクする」なんてない。

 

それに、最初に話をした「若者の自己肯定感の低い原因」の話と構造が同じじゃないですか?

 

…実は、ここで必要となるのが「デザイン」や「マネジメント」なんです。

 

「デザイン」と「アート」を混同される方がおられますが、基本は別物です。

 

先日の美術教育学会でも話に上がっていたのは、

 

「デザイン」は様々なものを洗練させていく工程であり、ロジックの中で混沌としたものをわかりやすく提示したり、強調したり、シンプルにしたりする事で

 

「アート」はまず自分(個人)がそれに満足し、他者からどう見られるかは関係ないので、

 

ロジックとアートを融合させ整理し、伝えていく過程が「デザイン」であるとの事でした。(ここ、結構あいまいな記憶)

 

各種先生方の話を聴いてい居る限りでは、カタチとして起こしていく為には、更にそういった一連の流れを「マネジメント」していく必要があるんです。

 

学校には校則を始めとしたルールがあり、地域社会とは違う文化があり、地域の人達からは卒業生でもない限り中の様子をうかがい知る事はありません。

 

小中学校は地域の学生が通うので中の様子もわかりますが、高校となるとそうはいかないですよね。

 

高校の校内は地域から隔離されている場所と言っても過言ではありません。

 

そんな学校社会と地域社会を繋ぐためには、学生の「楽しい」「面白い」「ワクワクする」を、地域課題とうまくマッチングさせる発想とデザイン力、そしてそれら全体をうまくマネジメントする力が必要になります。

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これからの「学校の先生」にはそういった事が求められると言われておりましたが、

 

「ただでさえ教育者が減少する中で、それだけの能力を持った人が教師をやるのは大変だな」と思う反面、

 

「そういった理解ある先生が増えてくれれば、地域も変わるのではないか」と言った期待を持持つ事も出来ました。

 

私の卒業校は「持ち味を生かす」事を大切にし、今考えると地域との様々な交流を通じて社会性を育んだり、表現する事の大切さを体験することが他の高校よりは出来ていたのかなと改めて思います。

 

これもまさに「非言語」かつ「無意識」の教育ですね。

(私の卒業校)

www.okayama-sanyo-hs.ed.jp

こういった地域との繋がりやを作れる学校に学生は集まり、自己表現・アートを通じた体感型の授業を通じて社会で活躍する人材を育てていくんですね。

 

このような学校はまだまだ少ないのでしょう。

 

介護の教育課程にもこういった取り組みをどんどん広げていってもらいたいですね。

 

「ボランティア」で強制的にお手伝いさせられるのではなく、「自分たちの持ち味を生かした社会貢献の場を作る授業」。

 

そういった学習を体験した生徒たちは、介護の現場に来ても利用者様と地域との繋がりを考えてくれるのです。

 

だって、自分たちが体験した事だから。

 

人は体験した事しか十分に理解はしないし、体験によってしか変わりません。

 

ロジック(説得)ではなく、アート(納得)が必要なんです。(アートだけってのも問題。何事もやりすぎはダメ)

 

若い子にも、接する被支援対象者にも、パートナーにも、それぞれの想いを表出できる体験を持っていただきながら自分も楽しみたいですね。

 

街づくりや福祉の現場ではその体験が非常に得やすい。

 

そんな体験をして頂ききながら、デザイン力とマネジメント力が鍛えられる「場」があるって考えただけで楽しい!☚非論理。

 

そういった場が増えれば、社会も活性化するんじゃないかと思うんです。

 

ま、結局何が言いたいのかと言うと、対極的なものを繋げるときには、それぞれの成り立ちや考え方を理解し、デザインし、マネジメントする力が必要ってことで、その流れが社会課題の解決に有効かもしれないよと言うお話です。

 

ではでは。

アート教育が今、子供や地域に必要な訳

愛知県立大学の藤原智也准教授のお誘いで、名古屋市内で開催された美術科教育学会主催の「美術教育シンポジウムin名古屋」へ参加してきました。

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シンポジウムのテーマは「アートを通した子どもの学びと地域社会との関わり~コミュニティデザインの視点から構想するこれからの美術科教育~」。

 

私は午後からの参加だったので、実践発表からの参加でした。

 

実践者発表は美術の先生が中心で、学校教育の指導要領の解釈から、美術教育を通じた地域活動への展開をそれぞれの発表者がプレゼンするという形式。

 

さすがに皆様先生だけあって、こちらが授業を受けている感覚になりますね。

 

愛知県立岩倉総合高等学校の高橋承一先生の話では、「岩倉市から河川敷の高架下コンクリート部分の壁画制作を依頼された」事から始まる「美術教育によって高校生が培う力」というお話。

 

この岩倉市からの依頼は、そもそも、岩倉市にあるこの河川敷は花見の名所であるものの、橋のかかっている箇所は桜並木が途切れる場所にあり、人通りが少ないうえに、夜になると街灯もない事から、治安の悪い場所として地域の方から問題視されていた場所であったようです。

 

つまり、高架下の周辺の治安が地域課題として上げっていたのですね。

 

そこで、岩倉市と中部道路公団が資金を捻出・予算化し、橋の高架下のコンクリートに対して壁画などの制作を岩倉総合高等学校のアートデザイン系の学科へ依頼されたそう。

 

高校生の皆さんが制作された岩倉市にまつわる壁画を完成され、除幕式等を行ったのですが、その際に受けた学生のインタビューに先生が驚いたそうです。

 

学生がインタビューで答えた内容が、


「この壁画を通じて街の魅力を多くの人に感じてもらいたい。」

 

アートとは非常に個人的で感性に左右されやすい事から、

 

「学生が満足する出来のものが出来ればよい」

 

と考えていた先生は、

 

「アート制作を通じて街(岩倉市)を考えていた」学生の姿勢に

 

「教育におけるアートの可能性」を発見することが出来たと語っておられました。

 

この取り組みは、

  1. アート制作の依頼を受けて
  2. アートにおける無条件の楽しさ・ワクワク感をそれぞれが持つ
  3. 製作者同士のコミュニケーションの促進
  4. デザイン・企画を創る上での「全体を視る力」を経験・共有
  5. 「楽しさ」だけではなく外(地域)へ目を向けるきっかけとなる

と言った流れを通じて、学生に非言語で無自覚に地域を感じさせる事に成功したと言えます。

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他の教育課程では販売などを通じて市場経験を積ませることで町を見る視点を養うのだそうです。

 

制作段階で、地域の方や市役所職員等の学校以外の方とも多々関わる機会を持ち、その交流の楽しみも持てたと喜んでいたとの事で、壁画制作と言うアートを通じて、地域交流をもち、「この学校にはこんな子たちがいるんだ」と言った地域に対する安心感にもつながったとお話を伺う事が出来ました。

 

これこそ正にアート

 

あーだこーだと言われなくても非言語で無自覚に伝わっているんです。

 

藤原准教授のお話によると、現在の教育カリキュラムは、経済界の意向が強く反映され、英語やサイエンス等のロジック(論理)中心型教育になりつつあるそうです。

(ポストデモクラシー:経済エリートにおける政策立案等)

 

しかし、人間の意識は日常生活の中で約20%しかないと言われ、残りの約80%は無意識で生活を送っていると言われている中で、ロジック(論理的思考)の教育を強化するという事は約20%に対するアプローチにいかに詰め込みを行うかと言うバランスの悪いものになってしまいます。

 

勉強ばかり(だけ)の奴って「あいつ大丈夫?」って言われる事が多いですよね。

 

人間には意識しているようで意識していない(道路を歩いても道のりは覚えても、道に合った細かい建物やその造形は覚えていない)時間が長くその現象をスコトーマと呼びます。

 

アートは非言語で無自覚にアプローチを行う事が可能な分野であることから、その無意識のスコトーマの部分約80%に対してのアプローチが可能となります。

 

趣味とか気分転換もこちらですね。

これって、教育と言う観点から見たらロジックであーだこーだいう事よりも効果的で凄い事じゃないかと思うんです。

 

どんなに「社会貢献がー」「地域とのつながりがー」とロジックで説明した所で、「正しいけど面白くない」「いいけど好きじゃない」では頭に残るはずもなく、下手すれば拒否されてしまいかねません。

 

アートは逆です。

 

「よくわからないけど、面白い」「なんだか好き」から入ります。

 

そこから後付けの様にロジック(論理)やマーケット(市場)が入ってきます。

 

岩倉総合高等学校の例は簡単に言うと、地域課題を市町村等がロジックで積み上げてきたもの(高架下の治安が悪いから壁画制作をして欲しい)に対して、つなぎ役となる美術の先生が学生の「好き」「面白い」を接点に地域と繋げる事で相互理解が深まり、社会貢献に繋がったというお話でした。

 

論理性と非論理性は対照的ではあるものの、それらの特性を理解する事で繋がりを産み出すことが出きるという事例ですね。

 

それはつまり、美術教育には、アートを通じて「地域デザインを考えていく力」を養う力があるという事なんです。

 

また、教育段階の学生とロジックを用いたやり取りをすると、学業を卒業している社会人の方が強くなることは明白で、そこに上下関係が出来やすいんです。

 

しかし、アートを用いたやり取りだと個々の感性の問題ともなり上下関係は成り立ちにくく非常にフラットな関係性が生まれやすくなります。

 

つまり、一定の配慮は必要であるものの、アートを通じてたコミュニケーションを図る事で、普段は壁を感じてしまう人と人、コミュニティとコミュニティのコミュニケーション促進に繋がるというわけです。

 

これはシニアファッションショーのモデル講座でも同じ。

 

ファッションセンスに年齢は関係なく、互いのセンスを図り合いながら、対等に会話を行う事でコミュニケーションが成り立ちやすい。

 

自己肯定感の弱いと言われる学生にアートを通じて、ロジックの上下関係以外の世界を体感して頂くことは、地域社会へ帰った時のコミュニティ形成の促進にもつながる事から、今後、教育分野においては、よりアートの重要性が問われる事と思います。

 

時代は知識をストックしておけばよい時代から、それらを使いクリエイティブなものを生み出していく時代へと変化していっています。

 

ロジックとアートの特性を理解し、それぞれの組織における流れ

  • 情報収集・分析から積み上げるロジック

なのか

  • 個人の好き嫌いを集めて形成される(集団・社会的)アート

どちらなのかを理解し、それらをデザイン、マネジメントしていく力が必要であると改めて考えさせられるきっかけとなりました。

 

美術科の先生が学校教育をけん引するといった提言も刺激的で、やはりどの立場からでも変えて行こうとされる方がいる事は心強いですね。

 

結局、アート教育が必要なのは、ロジックばかりの頭の固い知識ストック型の人間は通用しなくなってきている時代だから、様々な分野にアートの視点を取り入れる事で、世界で通用人間を育てる事にもつながるし、地元に若い人が返ってくるような教育にアートは有効だよって話だと理解しております。(個人的感想)

 

こういった方々と一緒に仕事したいと思える時間でした。

 

ではでは。

 

 

 

相互理解が介護福祉のクリエイティブを産むってこと

こんな経験ないですか?

 

「あなたの言っている事はとても正しい。正しいのはわかるんだけど、私は

 

そう、いかに構造的な問題を論理的かつ信頼性のある言葉で並べ立てても、

 

「頭ではわかっている」のだけれども「拒否してしまう」何て経験をされる方多いんじゃないかと思います。

 

そんな混沌とした中で「ただ何となく」ぼんやりと出てくる自分の意思(正当性)に希望を見出している状態に期待してしまっている時ないですか?

 

まさに直観ですね。

 

「論理型」と「非論理型」

 

私が今まで提示してきた事は文章にしてしまっている分、論理型に傾いている記述が多いように思います。

 

「分解とか分析とか、論理的に突き詰めていく思考」は、世界の有名な企業TOYOTAの「5つのWHY」からみてわかるように、日本人が大好きな思考のようですね。

president.jp


この掘り下げ型の思考は、機能的な完成度レベルを向上するにはすごく有効ですが、新しいコンセプトとか、大きなストーリーを構想するクリエイティブな事にはまったく向かないんです。

 

「論理型」の人は、
数字、信頼性、あとは再現可能性が高いことが大好きです。

 

「非論理性」の人は、
「面白ければいい」で、論理型の人から見た直感型の人のアイデアは、信頼性も、再現可能性もなくて、突っ込みどころ満載なんです。

 

「非論理型」の人からはイノベーティブな発想が出てくることも多いのですが、イノベーティブであるということは、すなわち不確実性とセットな訳で、

 

「不確実性の存在が不安で許せない」とか「詳細にわかっていないと気分が悪いという人」には耐えられない。

 

まあ、不確実性をゼロにするって、それこそ不可能なことなんですが。

 

組織で言うと、「論理型」になりがちなのが「経営陣」で、「非論理型」は現場の介護系職員に多いのです。

 

経営陣がいくら論理的な言葉を並べ立てても結論が「あなたの言っている事はとても正しい。正しいのはわかるんだけど、私は嫌。」で終わってしまう。

 

もうぐうの音も出ない感じで。

 

論理型の人だって、非論理型の人だって常に今の現状に満足している訳ではない場合、「何かしなければいけない」と創造的な事を求めるようになります。(仕事に追われてそれどころじゃないよと言う方も多いと思いますが。)

 

その為、チームを率いるリーダーやマネージャー、経営陣の方は「創造的な結果を得るには、論理思考と直感型思考の両方が必要だと理解する」事が必要になります。

 

クリエイティブを求める組織のトップには「論理と直感の2つの間に橋を架けるという姿勢」が必要なんですね。

 

つまりは、現場の職員が何か突拍子もないようなことを言っていても「うんうん」とうなずきながら、「私は直感的なメッセージ、イメージも受け止めますよ」という姿勢・職場環境を提供するってことが求められるわけです。

 

注意点としては、「論理型」「非論理型」の全く違う2種類の人を同じ場所に置くだけではなく、全員が両方を理解できるようになることが、成功の鍵なので、互いにどちらが向いているかをそれぞれ把握して頂くような研修の機会が必要だったりします。

 

お互いを知らないと連携が図れない。地域包括ケアも一緒ですね。

 

さて、一方的に非論理型の「直感的なメッセージ」や「イメージ」を受け止めるだけでは話は進みません。その発想の素地はどうしたって必要なんですよね。

 

その素地と言うのがいわゆる、「論理型」の構造的で論理的かつ信頼性もある「制約条件」。情報を可視化する事で見えてくるのは「制約条件」だったりします。

 

  • 食事はこの時間内に食べないといけませんよ。
  • トイレは大体この時間帯で誘導しますよ。それ以外の時間は人員がいないので対応できませんよ。
  • 人員の関係上、お風呂はこんな周期になりますよ。…etc

 

そこに「非論理型」の職員はぶつかってくれるわけです。

 

  • 「食事なんて自由に食べてもいいんじゃない?」
  • 「トイレなんて行きたいときにお手伝いすればいいじゃない!」
  • 「お風呂なんて昼間っから入る人なんていないじゃない!」…etc

 

こういった職員から意見を貰う度、論理型の人間(主にマネジメント職)の人達は今の職場の構造的で論理的かつ信頼性のある情報で納得してもらおうとします。

 

しかし、そもそも「非論理型」の職員はそんな所なんて見ていません。

 

彼等、彼女等は組織の質の向上なんて見ていないのです。

 

彼等、彼女等の見る方向は、あくまで支援をする対象者が「どういった生活がしたいのか」というコンセプトとストーリーなんです。

 

見るべきものは支援対象者の生活や人生ありきなんですね。

 

どんなに正しい事を言っても、人の人生なんて様々なのでそれこそまさに混沌としているけれども直感的なものだったりするわけです。

 

クリエイティブは「非論理性」から生まれ、マネジメントは「論理性」から生まれるとなれば、その相反する所をうまく融合させていく為に、それぞれの特性を知る必要があります。

 

「論理型」が好むものは「数字、信頼性、あとは再現可能性が高いこと」と伝えましたが、それはつまり「情報理解・客観的視点」と言い換えることが出来ます。

 

「非論理型」が好むものは「楽しい、おもしろい、好き」などの個人的な「主観的視点」です。主観的視点は、支援対象者の人物理解が進むことで感情移入を行い、支援対象者の視点から「主観的視点=人物理解」でものを考えることが出来るようになります。

 

大人がよく言う「相手の立場に立って考えなさい」ってことですね。

 

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「論理型」の「情報理解・客観的視点」のみで話が進めば、何か起こる(問題行動)と解決しようとしてみたり、そもそも「支援対象者を介護の対象物・症例としか見ていない為、支援対象者自身を見ていない。」なんて事が往々にしてでてきます。

 

介護の質があがったとそれで胸を張って言えますか?

 

勿論答えはNO。

 

相手の世界観をみとめ、被支援対象者の視点で主観的に考える事で、「被支援対象者は介護の対象物・症例ではなく、人である。」という事を再認識出来、何か起こる(問題行動)と解決しようとする事も大事だが、いかにして付き合っていくかを考えることが出来るのです。

 

認知症フレンドリーな社会についてが今、世界で注目をされています。

 

それは、「何か起こる(問題行動)と解決しようとする」という事だけにとどまらず、「それも大事だが、いかにして付き合っていくかも重要。社会がそれを受け入れる素地を作っていく必要がある」という共生についての考え方が取り入れられているからでしょう。

 

認知症の方に対して、進行の緩和・改善を行うことも必要であるが、認知症であっても問題のない生活空間を提供することも大切」という共生の考え方ですね。

 

「非論理型」の方はそういったストーリーをとても大切にします。

 

なぜなら、相手の立場に立つにはストーリー(物語)を共有する事が必要だからです。

映画を思い出してみてください。

 

映画のパンフレットには大切な情報がちりばめられており、ストーリーもある程度書かれています。もしくは映画を見たという感想のレビュー。これらを見て感動できますか?

 

感動するには、実際に喜んだり、興奮したり涙したりするには、やはり映画を見て、感情移入をする必要があるのです。そう、相手(映画の主人公)の立場(視点)に立って物語を見る(考える)事が必要なのです。

 

物語を共有する事で共感することが出来、それが被支援対象者との繋がりにもなったりします。

 

そういったそれぞれのストーリー(物語)を、マネジメントできるよう、その視点を活かしながら構造的な問題を再考し、論理的に考え、共有していく姿勢が介護には求められます。

 

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「論理性」と「非論理性」と言った、真逆の事象をうまく融合させながら、新しいものを創造していく様はまさにクリエイティブそのもの。

 

現在、介護のみならずクリエイティブかつイノベーティブな活躍をするには「機能・デザイン・ストーリー」の3つが大切だと言われております。

 

多機能ナイフを例として、かつては一つの物に沢山の機能がついていたものがもてはやされた時代がありました。

 

しかし、電子レンジやリモコンなど、多機能になればなるほど複雑になり使い勝手が悪くなります。

 

そこで新たにデザインにより「よりわかりやすく使いやすさ」を求めた商品が売れだしました。

 

そして物が溢れた今は「その商品がいかにして生まれてきたか、必要なのか」と言った生活に対するストーリーが売りになると言われています。

 

もちろん機能・デザインあってのことですが。

 

機能の洗練は「論理型」で可能であっても、「デザイン」や「ストーリー」は「非論理型」の方が得意なことが多いようです。

 

この両方を磨く場として、介護福祉の現場をとらえてみると新しい発見があるかもしれませんね。

 

出来れば管理者やトップの方は是非この考え方を参考にして頂きたいと思います。

 

勿論、現場で働く方々にも必須だとは思いますが。

 

度々出てきた研修の話。気になる方はクリエイティブケア研究会へどうぞ。

 

ではでは。