アート教育が今、子供や地域に必要な訳

愛知県立大学の藤原智也准教授のお誘いで、名古屋市内で開催された美術科教育学会主催の「美術教育シンポジウムin名古屋」へ参加してきました。

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シンポジウムのテーマは「アートを通した子どもの学びと地域社会との関わり~コミュニティデザインの視点から構想するこれからの美術科教育~」。

 

私は午後からの参加だったので、実践発表からの参加でした。

 

実践者発表は美術の先生が中心で、学校教育の指導要領の解釈から、美術教育を通じた地域活動への展開をそれぞれの発表者がプレゼンするという形式。

 

さすがに皆様先生だけあって、こちらが授業を受けている感覚になりますね。

 

愛知県立岩倉総合高等学校の高橋承一先生の話では、「岩倉市から河川敷の高架下コンクリート部分の壁画制作を依頼された」事から始まる「美術教育によって高校生が培う力」というお話。

 

この岩倉市からの依頼は、そもそも、岩倉市にあるこの河川敷は花見の名所であるものの、橋のかかっている箇所は桜並木が途切れる場所にあり、人通りが少ないうえに、夜になると街灯もない事から、治安の悪い場所として地域の方から問題視されていた場所であったようです。

 

つまり、高架下の周辺の治安が地域課題として上げっていたのですね。

 

そこで、岩倉市と中部道路公団が資金を捻出・予算化し、橋の高架下のコンクリートに対して壁画などの制作を岩倉総合高等学校のアートデザイン系の学科へ依頼されたそう。

 

高校生の皆さんが制作された岩倉市にまつわる壁画を完成され、除幕式等を行ったのですが、その際に受けた学生のインタビューに先生が驚いたそうです。

 

学生がインタビューで答えた内容が、


「この壁画を通じて街の魅力を多くの人に感じてもらいたい。」

 

アートとは非常に個人的で感性に左右されやすい事から、

 

「学生が満足する出来のものが出来ればよい」

 

と考えていた先生は、

 

「アート制作を通じて街(岩倉市)を考えていた」学生の姿勢に

 

「教育におけるアートの可能性」を発見することが出来たと語っておられました。

 

この取り組みは、

  1. アート制作の依頼を受けて
  2. アートにおける無条件の楽しさ・ワクワク感をそれぞれが持つ
  3. 製作者同士のコミュニケーションの促進
  4. デザイン・企画を創る上での「全体を視る力」を経験・共有
  5. 「楽しさ」だけではなく外(地域)へ目を向けるきっかけとなる

と言った流れを通じて、学生に非言語で無自覚に地域を感じさせる事に成功したと言えます。

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他の教育課程では販売などを通じて市場経験を積ませることで町を見る視点を養うのだそうです。

 

制作段階で、地域の方や市役所職員等の学校以外の方とも多々関わる機会を持ち、その交流の楽しみも持てたと喜んでいたとの事で、壁画制作と言うアートを通じて、地域交流をもち、「この学校にはこんな子たちがいるんだ」と言った地域に対する安心感にもつながったとお話を伺う事が出来ました。

 

これこそ正にアート

 

あーだこーだと言われなくても非言語で無自覚に伝わっているんです。

 

藤原准教授のお話によると、現在の教育カリキュラムは、経済界の意向が強く反映され、英語やサイエンス等のロジック(論理)中心型教育になりつつあるそうです。

(ポストデモクラシー:経済エリートにおける政策立案等)

 

しかし、人間の意識は日常生活の中で約20%しかないと言われ、残りの約80%は無意識で生活を送っていると言われている中で、ロジック(論理的思考)の教育を強化するという事は約20%に対するアプローチにいかに詰め込みを行うかと言うバランスの悪いものになってしまいます。

 

勉強ばかり(だけ)の奴って「あいつ大丈夫?」って言われる事が多いですよね。

 

人間には意識しているようで意識していない(道路を歩いても道のりは覚えても、道に合った細かい建物やその造形は覚えていない)時間が長くその現象をスコトーマと呼びます。

 

アートは非言語で無自覚にアプローチを行う事が可能な分野であることから、その無意識のスコトーマの部分約80%に対してのアプローチが可能となります。

 

趣味とか気分転換もこちらですね。

これって、教育と言う観点から見たらロジックであーだこーだいう事よりも効果的で凄い事じゃないかと思うんです。

 

どんなに「社会貢献がー」「地域とのつながりがー」とロジックで説明した所で、「正しいけど面白くない」「いいけど好きじゃない」では頭に残るはずもなく、下手すれば拒否されてしまいかねません。

 

アートは逆です。

 

「よくわからないけど、面白い」「なんだか好き」から入ります。

 

そこから後付けの様にロジック(論理)やマーケット(市場)が入ってきます。

 

岩倉総合高等学校の例は簡単に言うと、地域課題を市町村等がロジックで積み上げてきたもの(高架下の治安が悪いから壁画制作をして欲しい)に対して、つなぎ役となる美術の先生が学生の「好き」「面白い」を接点に地域と繋げる事で相互理解が深まり、社会貢献に繋がったというお話でした。

 

論理性と非論理性は対照的ではあるものの、それらの特性を理解する事で繋がりを産み出すことが出きるという事例ですね。

 

それはつまり、美術教育には、アートを通じて「地域デザインを考えていく力」を養う力があるという事なんです。

 

また、教育段階の学生とロジックを用いたやり取りをすると、学業を卒業している社会人の方が強くなることは明白で、そこに上下関係が出来やすいんです。

 

しかし、アートを用いたやり取りだと個々の感性の問題ともなり上下関係は成り立ちにくく非常にフラットな関係性が生まれやすくなります。

 

つまり、一定の配慮は必要であるものの、アートを通じてたコミュニケーションを図る事で、普段は壁を感じてしまう人と人、コミュニティとコミュニティのコミュニケーション促進に繋がるというわけです。

 

これはシニアファッションショーのモデル講座でも同じ。

 

ファッションセンスに年齢は関係なく、互いのセンスを図り合いながら、対等に会話を行う事でコミュニケーションが成り立ちやすい。

 

自己肯定感の弱いと言われる学生にアートを通じて、ロジックの上下関係以外の世界を体感して頂くことは、地域社会へ帰った時のコミュニティ形成の促進にもつながる事から、今後、教育分野においては、よりアートの重要性が問われる事と思います。

 

時代は知識をストックしておけばよい時代から、それらを使いクリエイティブなものを生み出していく時代へと変化していっています。

 

ロジックとアートの特性を理解し、それぞれの組織における流れ

  • 情報収集・分析から積み上げるロジック

なのか

  • 個人の好き嫌いを集めて形成される(集団・社会的)アート

どちらなのかを理解し、それらをデザイン、マネジメントしていく力が必要であると改めて考えさせられるきっかけとなりました。

 

美術科の先生が学校教育をけん引するといった提言も刺激的で、やはりどの立場からでも変えて行こうとされる方がいる事は心強いですね。

 

結局、アート教育が必要なのは、ロジックばかりの頭の固い知識ストック型の人間は通用しなくなってきている時代だから、様々な分野にアートの視点を取り入れる事で、世界で通用人間を育てる事にもつながるし、地元に若い人が返ってくるような教育にアートは有効だよって話だと理解しております。(個人的感想)

 

こういった方々と一緒に仕事したいと思える時間でした。

 

ではでは。

 

 

 

相互理解が介護福祉のクリエイティブを産むってこと

こんな経験ないですか?

 

「あなたの言っている事はとても正しい。正しいのはわかるんだけど、私は

 

そう、いかに構造的な問題を論理的かつ信頼性のある言葉で並べ立てても、

 

「頭ではわかっている」のだけれども「拒否してしまう」何て経験をされる方多いんじゃないかと思います。

 

そんな混沌とした中で「ただ何となく」ぼんやりと出てくる自分の意思(正当性)に希望を見出している状態に期待してしまっている時ないですか?

 

まさに直観ですね。

 

「論理型」と「非論理型」

 

私が今まで提示してきた事は文章にしてしまっている分、論理型に傾いている記述が多いように思います。

 

「分解とか分析とか、論理的に突き詰めていく思考」は、世界の有名な企業TOYOTAの「5つのWHY」からみてわかるように、日本人が大好きな思考のようですね。

president.jp


この掘り下げ型の思考は、機能的な完成度レベルを向上するにはすごく有効ですが、新しいコンセプトとか、大きなストーリーを構想するクリエイティブな事にはまったく向かないんです。

 

「論理型」の人は、
数字、信頼性、あとは再現可能性が高いことが大好きです。

 

「非論理性」の人は、
「面白ければいい」で、論理型の人から見た直感型の人のアイデアは、信頼性も、再現可能性もなくて、突っ込みどころ満載なんです。

 

「非論理型」の人からはイノベーティブな発想が出てくることも多いのですが、イノベーティブであるということは、すなわち不確実性とセットな訳で、

 

「不確実性の存在が不安で許せない」とか「詳細にわかっていないと気分が悪いという人」には耐えられない。

 

まあ、不確実性をゼロにするって、それこそ不可能なことなんですが。

 

組織で言うと、「論理型」になりがちなのが「経営陣」で、「非論理型」は現場の介護系職員に多いのです。

 

経営陣がいくら論理的な言葉を並べ立てても結論が「あなたの言っている事はとても正しい。正しいのはわかるんだけど、私は嫌。」で終わってしまう。

 

もうぐうの音も出ない感じで。

 

論理型の人だって、非論理型の人だって常に今の現状に満足している訳ではない場合、「何かしなければいけない」と創造的な事を求めるようになります。(仕事に追われてそれどころじゃないよと言う方も多いと思いますが。)

 

その為、チームを率いるリーダーやマネージャー、経営陣の方は「創造的な結果を得るには、論理思考と直感型思考の両方が必要だと理解する」事が必要になります。

 

クリエイティブを求める組織のトップには「論理と直感の2つの間に橋を架けるという姿勢」が必要なんですね。

 

つまりは、現場の職員が何か突拍子もないようなことを言っていても「うんうん」とうなずきながら、「私は直感的なメッセージ、イメージも受け止めますよ」という姿勢・職場環境を提供するってことが求められるわけです。

 

注意点としては、「論理型」「非論理型」の全く違う2種類の人を同じ場所に置くだけではなく、全員が両方を理解できるようになることが、成功の鍵なので、互いにどちらが向いているかをそれぞれ把握して頂くような研修の機会が必要だったりします。

 

お互いを知らないと連携が図れない。地域包括ケアも一緒ですね。

 

さて、一方的に非論理型の「直感的なメッセージ」や「イメージ」を受け止めるだけでは話は進みません。その発想の素地はどうしたって必要なんですよね。

 

その素地と言うのがいわゆる、「論理型」の構造的で論理的かつ信頼性もある「制約条件」。情報を可視化する事で見えてくるのは「制約条件」だったりします。

 

  • 食事はこの時間内に食べないといけませんよ。
  • トイレは大体この時間帯で誘導しますよ。それ以外の時間は人員がいないので対応できませんよ。
  • 人員の関係上、お風呂はこんな周期になりますよ。…etc

 

そこに「非論理型」の職員はぶつかってくれるわけです。

 

  • 「食事なんて自由に食べてもいいんじゃない?」
  • 「トイレなんて行きたいときにお手伝いすればいいじゃない!」
  • 「お風呂なんて昼間っから入る人なんていないじゃない!」…etc

 

こういった職員から意見を貰う度、論理型の人間(主にマネジメント職)の人達は今の職場の構造的で論理的かつ信頼性のある情報で納得してもらおうとします。

 

しかし、そもそも「非論理型」の職員はそんな所なんて見ていません。

 

彼等、彼女等は組織の質の向上なんて見ていないのです。

 

彼等、彼女等の見る方向は、あくまで支援をする対象者が「どういった生活がしたいのか」というコンセプトとストーリーなんです。

 

見るべきものは支援対象者の生活や人生ありきなんですね。

 

どんなに正しい事を言っても、人の人生なんて様々なのでそれこそまさに混沌としているけれども直感的なものだったりするわけです。

 

クリエイティブは「非論理性」から生まれ、マネジメントは「論理性」から生まれるとなれば、その相反する所をうまく融合させていく為に、それぞれの特性を知る必要があります。

 

「論理型」が好むものは「数字、信頼性、あとは再現可能性が高いこと」と伝えましたが、それはつまり「情報理解・客観的視点」と言い換えることが出来ます。

 

「非論理型」が好むものは「楽しい、おもしろい、好き」などの個人的な「主観的視点」です。主観的視点は、支援対象者の人物理解が進むことで感情移入を行い、支援対象者の視点から「主観的視点=人物理解」でものを考えることが出来るようになります。

 

大人がよく言う「相手の立場に立って考えなさい」ってことですね。

 

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「論理型」の「情報理解・客観的視点」のみで話が進めば、何か起こる(問題行動)と解決しようとしてみたり、そもそも「支援対象者を介護の対象物・症例としか見ていない為、支援対象者自身を見ていない。」なんて事が往々にしてでてきます。

 

介護の質があがったとそれで胸を張って言えますか?

 

勿論答えはNO。

 

相手の世界観をみとめ、被支援対象者の視点で主観的に考える事で、「被支援対象者は介護の対象物・症例ではなく、人である。」という事を再認識出来、何か起こる(問題行動)と解決しようとする事も大事だが、いかにして付き合っていくかを考えることが出来るのです。

 

認知症フレンドリーな社会についてが今、世界で注目をされています。

 

それは、「何か起こる(問題行動)と解決しようとする」という事だけにとどまらず、「それも大事だが、いかにして付き合っていくかも重要。社会がそれを受け入れる素地を作っていく必要がある」という共生についての考え方が取り入れられているからでしょう。

 

認知症の方に対して、進行の緩和・改善を行うことも必要であるが、認知症であっても問題のない生活空間を提供することも大切」という共生の考え方ですね。

 

「非論理型」の方はそういったストーリーをとても大切にします。

 

なぜなら、相手の立場に立つにはストーリー(物語)を共有する事が必要だからです。

映画を思い出してみてください。

 

映画のパンフレットには大切な情報がちりばめられており、ストーリーもある程度書かれています。もしくは映画を見たという感想のレビュー。これらを見て感動できますか?

 

感動するには、実際に喜んだり、興奮したり涙したりするには、やはり映画を見て、感情移入をする必要があるのです。そう、相手(映画の主人公)の立場(視点)に立って物語を見る(考える)事が必要なのです。

 

物語を共有する事で共感することが出来、それが被支援対象者との繋がりにもなったりします。

 

そういったそれぞれのストーリー(物語)を、マネジメントできるよう、その視点を活かしながら構造的な問題を再考し、論理的に考え、共有していく姿勢が介護には求められます。

 

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「論理性」と「非論理性」と言った、真逆の事象をうまく融合させながら、新しいものを創造していく様はまさにクリエイティブそのもの。

 

現在、介護のみならずクリエイティブかつイノベーティブな活躍をするには「機能・デザイン・ストーリー」の3つが大切だと言われております。

 

多機能ナイフを例として、かつては一つの物に沢山の機能がついていたものがもてはやされた時代がありました。

 

しかし、電子レンジやリモコンなど、多機能になればなるほど複雑になり使い勝手が悪くなります。

 

そこで新たにデザインにより「よりわかりやすく使いやすさ」を求めた商品が売れだしました。

 

そして物が溢れた今は「その商品がいかにして生まれてきたか、必要なのか」と言った生活に対するストーリーが売りになると言われています。

 

もちろん機能・デザインあってのことですが。

 

機能の洗練は「論理型」で可能であっても、「デザイン」や「ストーリー」は「非論理型」の方が得意なことが多いようです。

 

この両方を磨く場として、介護福祉の現場をとらえてみると新しい発見があるかもしれませんね。

 

出来れば管理者やトップの方は是非この考え方を参考にして頂きたいと思います。

 

勿論、現場で働く方々にも必須だとは思いますが。

 

度々出てきた研修の話。気になる方はクリエイティブケア研究会へどうぞ。

 

ではでは。

人材確保は人がいればいいというものではない

介護のお仕事をしていると、あちこちでこんな声が良く聞こえます。

「人がたりない」

介護人材確保が国レベルで議論されている訳ですが、国家の試算では2020年代初頭までに追加的に25万人の介護人材の確保が必要だと考えているようで、このままでは2025年には約38万人の需要ギャップが生じるとされているようです。

 

いや、ちょっと待って。

 

日本の人口推移を把握されているであろう方々はこの図を嫌と言うほど知っているはず。

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(日本の総人口の推移:出典 総務省統計局)


…まぁ、あきらかに減ってますよね。人口。

 

そう、知っての通り私たちは日本の人口減少時代に生きている訳です。

 

人口減少する中で、今よりも多くの介護人材が必要になるという事は、システムの見直しをせざるを得ない状態に追い込まれているという事ですね。

 

約38万もの需要ギャップについては、現在の現行法をそのままにした場合の推計である事から、介護人材供給増だけではなく「介護人材の需要が妥当かどうを検証し、ケアの質を高めより効率的な提供体制とするような介護人材の需要側施策についても検討必要がある。」と言われています。

 詳しくはこちらをどうぞ↓

平成28年度厚生労働省老人保健健康増進等事業 介護人材の需要推計に関する調査研究報告書

 

簡単に言うと、「日本は人口減少しているんだから、他の産業と取り合う前に、もっと効率化して少ない人数で何とかできるようになりなさいよ」と言う事ですね。

 

こう言うと大抵「人手が足りないと言っているのに何てこと言うんだ!」と感情論にもなったりしがちなのですが、思考停止せずに話を進めていきたいと思います。

 

私は極論を言うと人は少ない方が良いと思っています。(極論ね、極論)

 

  • 少ないスタッフ=質の低いケア+人件費の抑制

 

を連想されがちですが、人が多い方が良いサービスが出来るというのは、

 

  • 良いサービス=大勢の介護スタッフによるケア

 

という事になりますが、本当にそうでしょうか?

 

例えば、コンビニに20人の定員がいても邪魔なだけでしょうし、人が多いという事がそのまま良い支援に繋がるなんてことはありません。

 

施設やデイサービス等の箱モノサービスにおいてPRされる「私の事業所は人材を規定より多く配置しているので」と言うセールスは決して良い売り文句ではないと思っております。

 

ちなみに少なすぎは論外です。論外。何事もやりすぎは良くないんです。

 

上記でコンビニを例に出したので、そのまま例題として活用しますが、コンビニに常時20人いたってとんでもなく人件費がかかるだけでなく、それぞれが仕事の邪魔なだけです。

 

レジなんて2人から3人で対応できるのに、6人も7人もいれば、それぞれの無責任になり、緊張感がなくなり、私語をしてまうようになり、無駄な仕事を疑問を持たずに続けるようになってしまうでしょう。

 

それはつまり、「責任の分散であり、余裕からくる緩みであり、私語の発生であり、一切効率化を考えなくなること」と言えます。

 

「私の事業所は人材を規定より多く配置しているので」と言われる事業所の方々は「一人一人が力を出し合って、スタッフが少ない所より、確実に良いサービスが出来ている」のでしょうか?

 

私はそういったPRの方が良いと思うのですが、なぜかそういったPRは聞いたことがありません。

 

人数が多いときは、通常のサービスより+αのサービスを産み出す必要がありますが、現実は、人数が増えた当初はそれが出来たとしても、月日とともに、結局通常のサービスを増えたスタッフ同士でワークシェアリングを行っているだけの状態に戻ってしまいます。

 

そして人が減った時には以前出来ていた事を「無理」とかいうわけですね。(個人的経験則)

 

財政難で人材不足と言われる中で画期的な事は「いかに少人数で素晴らしいサービスを提供できるか」という事になります。

 

シェアするのは仕事がシェアされて楽になるだけならまだよいのですが、介護保険制度の中では施設や事業所ではある程収入に上限があるので、入ってくる収入も人が増えるとシェアされる訳です。

 

つまり「人を増やしてくれ!」と言うのは「給料を下げてくれ!」と言っているようなものなのですね。

 

介護技術と言われるのは何も食事や排泄・入浴介助やボディメカニクス理論等の直接的支援技術だけではなく、量的問題を解決するだけの技とアイデアだと思っております。

 

「超少子高齢化社会+財政難の日本において介護の問題をどう片付けるのか?」という問題に対して、

 

「外国人介護士の受け入れにより、少子化の問題を解決しよう」

 

と言った考え方及び取り組みもあるようですが、

 

これはまさしく介護士の「量的問題の解決」アプローチであり、EPA等で先に日本に来て技能実習をされてきた方々の話を聴くと「人間関係」「労働環境」など、日本人でも直面する問題に苦しむ場合が多いようです。

 

そうなると、現状を知った優秀な方は日本に来なくなるでしょう。最終的には安い賃金で多くの外国人を受け入れていくという方向になってしまうのではないかと思います。

 

ちなみに日本で育った介護士介護福祉士は多国語が話せたりすると外国の福祉施設では引く手あまたで高給取りになる事が多いのです。

 

日本のケアは人気。だけど、優秀な人は定着はしないと。

 

人材確保も必要でしょうが、今、そして将来的に必要な事は介護に携わる人達のレベルアップ(単なる支援としての介護技術だけではなく量的アプローチに頼らない視点とアイデアを持った人材育成)が必要だと思うのです。

 

そして、経営者の方はこういった視点を持つ事が困難であれば、次々に新しい箱モノや事業所を建てたところですたれていく事は間違いありません。

 

全てを人手不足のせいにされる方には一度十分な人手を与えてみると面白いかもしれません。殆ど成果が変わらないでしょうから。

 

「人手が足りている」=「良いサービスが出来る」

 

ではなく、

 

  • 「良い人材・アイデア」=「良いサービス」

 

なんですね。

どれだけ多くの労働者がいても、アイデアがなければ何も生まれません。

介護でいうなら「最低限のお世話しか出来ない」ということです。


ましてや、素人の介護士や今の介護教育を受けたままの介護福祉士だったら、 たくさんいればいるだけ、お客様の廃用症候群が増えるでしょう。

 

「人口減少少子高齢化の中で、介護の問題を解決し、今後同じ問題に直面する地域のモデルになりましょう!」といった気概を持っていただきたいものです。

 

その為には、現場で活躍される方には、教育を受けただけではなく、社会に出た後もしっかりと様々な知識を取り入れてよりクリエイティブな面を磨く事が求められます。

 

少人数での支援を確立させつつ、更に捻出した時間・人員で画期的な+αの支援・サービスを実現していく力が必要という事ですね。

 

その為には過剰な人員配置を再考し、業務の可視化を行い、スタッフ間での協議を進める等取り組んでいく事が沢山出てきます。

 

クリエイティブには素地が必要なんです。

 

「介護」は決して肉体労働ではなく、むしろこういった「知的労働」が求められています。

 

「肉体労働」として取り組むのか、

「知的労働」として取り組むのか、

 

どちらが良いと思われるかはあなた次第。


ではでは。

クリエイティブケア研究会とC-school事業について

介護の仕事をクリエイティブなものと捉えていると、働き方にも変化が見られるようになります。

 

思考が行動を変えていくんですね。

 

そういった体験をして頂きたいと考え、現在、理解ある方々とクリエイティブケア研究会なるものを主宰させて頂いており、2013年から数年間、医療・介護に携わる、またはその周辺産業の方々にご参加頂きながら「クリエイティブなケア」についてのセミナーや講座を開催させて頂いております。

www.facebook.com

 

その中で、言語化できる領域や論理化できる領域をお伝え・共有する事は簡単であり、アンケート上での成果も見えやすいのですが、運営をしていくうえで、やはり我々が求めたいところ、課題としては

 

「言語や論理では記述できない領域をいかに見つけ出し、共有し新しいものを産み出していくか」と言うポイントをいかに共有し伝えていくことが出来るかと言った所にありました。

 

そこで、2017年は今までの流れを汲みつつ、「クリエイティブ」を産み出す手法として注目されている「デザイン思考」のプロセスを踏襲した事業を進めていく事となったのです。

 

その名も「C-school」

 

「デザイン思考」が注目を集め出したのは2004年ごろといわれ、2005年にスタンフォード大学にd.school(デザインスクール)が創設された事が契機とされています。

 

C-schoolの「C」は「ケア」や「クリエイト」の意味が込められています。

 

デザイン思考には「Empathy(共感)」「Define(問題定義)」「Ideate(アイデア)」「Prototype(プロトタイプ)」「Test(テスト)」という五つのステップから成り、これをこなしていくことで「デザイン=問題解決」を効率的に生み出していくといったツールです。

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詳しい事はそれぞれGoogle先生にでも聞いてもらった方が分かりやすいと思いますが、あえて簡単な説明をするのであれば、

  1. 観察から洞察を得て
  2. 仮説を作り
  3. プロトタイプを作って
  4. それを検証し
  5. 試行錯誤を繰り返して改善を重ねながらモノ(製品・サービス)を創り出す

創造的なプロセスです。

 

もっと簡単にすると、

  1. ユーザーニーズを捉える
  2. 多くのアイデアを出す
  3. イデアを絞り込む(自分なりのフレームワークを用いて判断する)
  4. 検証と試行錯誤を繰り返す(行動力・実行力)

といった感じになります。

 

その際、“人”“現場”に注目し、観察を通じて、人々の行動や思考、文脈をありのままに理解することからスタートするところが特徴です。

 

C-schoolでは実際にデザイン思考を応用した形でのイベントを開催しておりますが、実は参加者にはそれが「デザイン思考」を応用したものとは全く伝えておりません。

 

よく「会の趣旨を理解して参加してもらった方がいいのではないか」と言われることもありますが、

 

言語化・論理化して伝えて小難しくすることによって、参加に対するハードルが上がったように感じたり、それによって門戸が狭まり

 

「本当に伝えたい人達」に「本当に伝えたい事」が伝わらない事の方が問題だと考えたからです。

 

現在「C-school」として開催させて頂いた、

「未来をつくるkaigoカフェ」(メイン講師:高瀬比左子氏、細川寛将氏)

クリエイティブケア研究会 - 写真 | Facebook

 

「若年性認知症当事者からみた ひと・まち・くらし」(メイン講師:山田真由美氏、鬼頭史樹氏)

クリエイティブケア研究会 - 写真 | Facebook

 

は、C-schoolにおける「デザイン思考ツール」のプロセスを活用して開催されております。

 

今までとは何が違うかと問われれば、「話を聴く(講義形式)だけでは終わらない」「目的もバラバラで互いの事を話だけではない」所です。

 

話を聴く対象(講師)に対して「観察をし、洞察を得て」から「自分なりの仮定、仮説」を考え、「他の参加者とアイデアを出し合う(プロトタイプ)」といった一連の目的を持った対話を通じて、それぞれの「アウトカム(検証・試行錯誤)」へ繋ぐ仕掛けを行っております。

 

やはり、体験を通じて「言語や論理化できない領域」を共有して頂く事で、それぞれの学びや気づきも高まりアンケート等にもそう言った書き込みがある事を嬉しく思います。

 

対話を通じて自身の考えや他者との考え方の「違い」を知る事で客観的に自身を知る事にも繋がり、自分自身の仕事の捉え方や考え方も変わります。

 

上記のような説明を会の開催前にお伝えすれば理解も早まるのでしょうが、そういった事は望んでおりません。

 

会に足を運んで頂き、「言語や論理では記述できない領域をいかに見つけ出し、共有し新しいものを産み出していくか」という体験をして頂く事で、参加頂いた方がよりクリエイティビティに満ちた活躍をしてくださればと思っております。

 

まあ、「非言語」で「無自覚」に伝えていくには難しさもありますが、それもまたこちらのクリエイティビティが求められるところと思います。

 

そして、C-schoolではその後のアフターフォローも念頭に置き活動を行っております。

 

現在開催した第2回までは、デザイン思考で言う所の「プロトタイプ(仮説検証実施)」「テスト(試行錯誤)」が行われておりません。

 

そう、未完成なんです。

 

それらの実施期間が今年の12月までと参加頂いた皆様にはお伝えしており、来年度にはそのテストの結果をそれぞれにご発表頂く機会をと考えております。

 

実際、先日ご参加頂いた他県の方のアフターフォローの為、その方の職場まで担当が足を運ばせて頂いております。

 

クリエイティブケア研究会では、今後も、新しい何かを創造するために、専門性の違う者が集まりながらも、それぞれの役割を不明確にしたまま境界を持たずに、一緒に手を動かす機会を創っていきたいと考えております。

 

その為には、クリエイティブケア研究会が境界を意識しない体制をつくる必要があります。

 

自分の仕事の範囲を明確化するような働き方は、むしろ境界をつくってしまうことになり、相互理解が図りづらくなる壁を作ってしまう事になりまねません。

 

「医療」や「介護」を通して「新しい何か」の発見をして、それを共有することで、集団による創造力を上げる。

 

そういった経験をそれぞれの職場や地域・組織に持ち帰って頂きたいと思います。

 

どんなものが産まれ、どんな形となっていくのかとても楽しみです。

 

ではでは。

私が介護の仕事を「クリエイティブだ」と言っている訳

介護はクリエイティブなお仕事だと思っているわけですが、

 

「なんで?」と言われれば、「文化依存度の高い領域のお仕事だから」と考えております。そう、まさしく「アート」なお仕事ともいえます。

 

ネット環境の整備やICTソリューション開発などで、情報共有のスピードが激しくなっているのは、もはや周知の事実。

 

それはつまり、「言語化できる領域、論理化できる領域は共有スピードが激しいので、競争の差異を産まなくなってきている。」ってことなんです。

 

知識として語れたり、情報共有できる範疇の事なんて、Google先生に聞けば大抵のことは答えが出てきますし、専門的なことは書籍・図書館・セミナー・大学教授なんかに聞けば答えが出てくる時代なんですね。

 

競争の差異が無くなるということは、「価値」を産みにくくなっているとも言えます。

 

では「競争の差異はどこで産み出していけばよいのでしょうか?」って事で最近特に注目されているのが、

 

「カッコイイ」「可愛い」「きもちい」「おもしろい」と言った、「言語や論理では記述できない領域」なんです。この領域は「文化依存度の高い領域」と言われています。

 

簡単にわかりやすい言葉で表現すると「アート」であったり「デザイン」といった言葉で表現できるかと思います。

 

この領域は非常に個人的で地域性に左右される為、共有しにくい部分とされています。

共有しにくいからこそ「競争における源泉(差異)」ともなりうるんですね。

 

かの有名なUNIQLOも、数年前の年始テーマに「Global is local,local is Global」を掲げていました。これは、フランチャイズとして一律同じサービスを全世界で展開していくといった従来のやり方ではなく、各地域・店舗毎にその地域・店独自の特色を盛り込んで行く事で、その地域毎に支持される店舗展開を行っていこうというものでした。

 

まさに、グローバル企業化へ向けた戦略として、「共有しにくい部分」とされる個人的性・地域性を重要視し、「世界的企業となる為に、その地域毎に目を向けていくやり方」へ注力したのです。

 

介護の仕事は、様々な障害を持った方々の生活支援がメインのお仕事。

 

よく勘違いされるのが、「生活支援」を行うためにはその方を知らないと支援なんてできないんですよね。「介護技術」っていうテンプレートで一律化されていてそれを提供するお仕事ではないんです。

 

その為に、被支援者(患者・お客・利用者など)の生きてきた歴史や考え方、背景なんかを知ろうとするわけです。

 

「なんでそれが好きなの?」

「なんでそれが嫌いなの?」

「なんでそんなことするの?」

「なんでそんなことやりたいの?」…etc

 

一律に同じ支援が通用しないのが介護のお仕事。このポイントを抑えることで、個々の被対象者における「文化依存度の高い領域」を掴む事が可能となってきます。

 

人は常に同じ時間を過ごすわけではなく、障害を持ってしまうと生活スタイルが変わってしまうことも多々あります。

 

そんな時に必要になってくるのが「文化依存度の高い領域」を紐解き、被対象者が世界をどう捉えているのか、どう認識しているかを支援者が共有することなんです。

 

人の行動や想い、感情で行動が連動していき「生活」を形作ります。

生活が連続していくことでその「人生」が形作られていきます。

人生をデザインするその人の「世界の捉え方や認識」がまさしく文化そのもの。

 

「クリエイティブ」はそういった文化を産んできた源泉であり、長い歴史の中で「非言語に」「無自覚に」連続しながら新たなものを産んできた行為をさすものです。

 

人の生活を支援し、生活が人生となり、それぞれの人生が交わり文化となる過程にかかわれる仕事として介護の仕事は多岐にわたります。

 

文化を生み続けていく事が文化を連続させていく事に繋がり、この活動がクリエイティビティを産み出すのであれば、その原点を支える介護はまさしくクリエイティブな仕事だといえます。

重要なのは、働く私たちも「世界の捉え方」「世界の認識」を持つ必要があるということ。

 

これがなければどんなお仕事をしていてもつまらんですからね。

クリエイティブな介護の仕事は価値を生み出しやすい仕事かもしれません。なので、一度、介護の仕事を経験しておくことがスタンダードになっても面白いかなとも思います。

 

ここまで書いていることは既に言語化された時点で「あまり人には伝わんねんえな」と思っております。

 

やっぱり「非言語で」「論理的には記述できない」事ってのは、自分が体験しなければわかりません。

 

最近の社会情勢として核家族が当たり前になっており、そもそも高齢者や障害者と関わる事も少なくなっています。

 

そう、体験がないのでそもそも「仕事」としての範疇に入ってきません。

 

シニアとの関わりやクリエイティブな体験を通じて「介護福祉」の魅力を肌感覚で学んでいただこうといった取り組みがシニアファッションショーの「モデル講座」だったりするわけです。

cucuru.media

 

若い人たちはもちろん、もっと多くの方に関わってもらいたい、介護の魅力を伝えていくことでクリエイティブが波及し、新しい文化につながっていけばよいかなと思います。

 

ではでは。

知っているけど考えたことがないこと

突然ですが、

昔話の「桃太郎」の話を知ってますか?

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まぁ、知らない人を見つけるのが難しいぐらいですね。

 

川から桃が流れてきて~

 

とか、

 

犬、猿、雉の三匹の動物を従えて鬼退治~

 

とか、話の大筋も知らない人はいないと思います。

 

しかし、自分の知っている「桃太郎」を他の人に話すと細かい部分がそれぞれ違うことがあります。

 

例えば

「桃からどの様に生まれてきたのか」

  1. 桃を切ったら生まれてきた。
  2. 桃から自分で出てきた
  3. 桃と一緒に赤子がいた

「鬼の所業」

  1. 村で悪さを働いた
  2. 姫様を連れ去った
  3. 宝を強奪した

「鬼退治の後、桃太郎はどうしたか」

  1. 鬼を殺した(全滅)
  2. 鬼に謝らせた(謝罪で許した)

「持って帰ってきた褒美」

  1. お宝
  2. 姫様(人質)

 

等々。

 

しかし変らない処もあるんです。

  • 桃太郎を育てたのは「おじいさん」と「おばあさん」。
  • 桃が川から流れてくる。
  • 鬼退治に犬・雉・猿を連れていく。

等々。

 

皆さん「桃太郎」と言う話は知っているんですよね。

 

ただ、なぜこの話がこんなに長く語り継がれてきたのか?

変わる部分と変わらない部分の違いはなんでしょうか?

 

「桃太郎」という話を知識として知っていても面白くとも何ともないですよね。

 

皆さんが子供の頃に聞きたかったのは「話の概要」ではなかったはずです。

 

「なんで桃が川から流れてくるの?」

なんて質問子供はしますが、あえて「なぜ?」の部分をわかりやすくして誘導させておいて、「伝えたいことを伝える」と、

 

「知りたい」子供に「伝えたいこと」を伝えることができます。

 

桃太郎のお話は「知識」

 

そこに解釈が加わると「知恵」になるんですね。

 

昔話の変わらない部分は「伝えたい・伝える必要がある部分」じゃないかと思っております。

 

桃太郎を育てたのは必ず「おじいさん」と「おばあさん」

 

なぜでしょうか?

 

皆さんの中で「知識」が「知恵」になっていますか?

 

さて、次はこの続きを書いていこうと思います。

 

ではでは♪

 

 

イメージ戦略としてのファッションショー

「介護の仕事は素晴らしいんだ!」

って言われても、正直わかんないですよね。

 

結局は最初の入り口のイメージが大切と前回書きました。

 

「高齢社会」と言えば、「問題」として捉える人が多く、これから年を重ねられる人達にとっても不安を持ちやすい社会情勢。

 

年を重ねても、いつまでも「キレイ」で「格好良く」をファッションからイメージとして持って頂く事で、介護予防の意識も高まり、高齢社会に対するイメージも変化させる事ができる。

 

福祉で活躍する人達にもスポットを当て、福祉に対するイメージを変える事で、これからの高齢社会に対するイメージをよりよいものに変えていく。

 

という魅せ方・伝え方を変えてみようと取り組んだのが「ファッションショー」という方法なんです。

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ネガティブな所に人は集まりません。

 

イメージを届けるには輝く部分を魅せる必要があるんですよね。

 

ファッションショーを開催することで、これからの介護福祉や高齢化に向けたネガティブイメージを払拭し、

  • いつまでも「いきいきと人生を過ごす」イメージを持って頂くことによる介護予防効果。
  • 福祉業界に対するイメージ変化による介護人材の確保
  • 一般企業と福祉とのコラボレーション促進による社会発展

のPR効果が望めます。

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こう言った元気な方から、

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介護を必要とされる方や介護士さんも同じショーで魅せていく。

 

バリアフリーのイメージを自然とお伝えすることにつながります。

 

実際にショーを見られた方々からは、

「私も来年でたい!」といった元気なシニア層から、要介護状態の方で「勇気をもらった」私もあの舞台に立てるよう頑張ります」とリハビリを熱心にされるようになった事例が出ております。

 

嬉しい事に、出演者の今回の事例があいち介護サービス大賞にもノミネートされました。

 

介護なんて気にもしなかった若者でも、ショーに関わると、

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感動で思わずもらい泣き。

 

日常生活を支えた末に、こういった場で輝かれる姿を見て、介護スタッフだけでなくその他利用者や関わった学生からも感動の声が聞かれました。

 

この企画委は高校生から専門学校までのたくさんの方にご協力をいただくことで若者に対してのPR効果にもつながりました。

 

伝え方を変えるともっともっと、様々な方に魅力を伝えられますね。

 

イメージ戦略の一つです。

 

ではでは♪